日本の企業研修というのは特殊な空間で、経験上、参加者への動機付けが著しく低いのが特徴です。実際、ほとんど「お休み」だと思っている人がかなりの割合おり、そのネガティブな状況をまずイーブンに持ってくるのが最初の仕事になります。その分、良い研修を行った場合、ポジティブな驚きになるのですが、とはいえ最初から動機付けができていない人間を教えるというのは効率が悪いことに変わりありません。そもそも何を学ぶかも分からずに研修所に集まってくるなどということは、自分のキャリアを自分で作っていくんだという欧米や中国ではありえません。もともと自分で主体的に学ばなくても終身雇用と出世がある程度確保されてきた日本ならではの現象かもしれません。
さて、弊社の研修では受講態度が悪い場合、その受講者は参加資格を剥奪します(要するにクビ)。クビになって初めて自分が失ったものに気が付く人が多いのですが、それはそれで良い気づきでありましょう。やる気のない人は来なくてよいのです。周りの真剣な人に迷惑です。
「セロ弾きのゴーシュ」という宮沢賢治の有名な小説にこんな一節があります。
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」
宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』
この短編小説は、街の音楽会に向けて追い込んでいる時期の楽団のリハーサルシーンから始まります。ゴーシュはあまり上手ではなく、楽長にいつも叱られています。そして家に帰ってチェロを猛練習するゴーシュのもとへ色々な動物がやってくるのです。上記のセリフは、2日目にやってきたカッコウがゴーシュに言ったものです。
カッコウは外国へ飛び立つまでにどうしてもドレミファを正しく歌いたいということで、ゴーシュに教えてくれとお願いします。ゴーシュは仕方なく何度も繰り返している間、カッコウは一生懸命叫んで練習します。
するとかっこうはたいへんよろこんで途中とちゅうからかっこうかっこうかっこうかっこうとついて叫さけびました。それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。
ゴーシュはとうとう手が痛くなって
「こら、いいかげんにしないか。」と云いながらやめました。するとかっこうは残念そうに眼めをつりあげてまだしばらくないていましたがやっと
「……かっこうかくうかっかっかっかっか」と云ってやめました。
ゴーシュがすっかりおこってしまって、
「こらとり、もう用が済んだらかえれ」と云いました。
「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです。」
「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。
「ではこれっきりだよ。」
ゴーシュは弓をかまえました。かっこうは「くっ」とひとつ息をして
「ではなるべく永くおねがいいたします。」といってまた一つおじぎをしました。
「いやになっちまうなあ。」ゴーシュはにが笑いしながら弾きはじめました。するとかっこうはまたまるで本気になって「かっこうかっこうかっこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。
同上
練習を続けているうちに、何だかゴーシュにはカッコウの方が正しい音階になっているような気がしてきます。
「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。」
同上
このあと、カッコウが恨めしそうにゴーシュにいったのが、一番最初に引用した部分です。
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」
テクニックなどではなく、取り組む姿勢の問題なのです。どこまでやる気があるのか、どこまで真剣なのか。できない理由ばかりを言い立てて不平をいう人もいますが、ではいつなら良いのでしょうか。そして、経営や人生の一大事は、自分がしっかり準備するまで待っていてくれるのでしょうか。問題は「今」の取り組みなのです。
動物たちとのドタバタの中でゴーシュのチェロは上達していき、演奏会は大成功に終わり、ゴーシュがアンコールまで務めることになります。楽長は喜んで次のようなセリフをゴーシュに投げかけます。
一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。
同上
やろうと思えばいつでもやれるわけではないのです。「やるとき」はいつも突然です。世界の指揮者である小澤征爾も世界で認められるきっかけになったのはラヴィニア音楽祭に急遽代役出演することになり、そこで成功を収めたことでした。そのチャンスは一瞬で、そしてその時につかまなければ永遠に失われてしまうでしょう。チャンスは前頭だけに毛髪があり、一度逃がしたら捕まえることはできないのですから。
物事と真剣に向き合うこと。それは自分と真剣に向き合うことでもあります。まずは私もかっこうのように、のどから血が出るまで叫んでみたいと思います。