研修時によく紹介する話に、「働き者の木こり」があります。
これはスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』にある「第7の習慣」にある、「刃を研ぐ(Sharpen the Saw)」という話です。
働き者の木こりがおり、朝6時に仕事に行って夜の10時に帰ってくる、帰ってきたら疲れて寝てしまうので、家族とゆっくり話す時間もありません。ある日、友人が木こりの家に遊びに来て、ふとのこぎりに目をやると、のこぎりの刃が丸くなっています。その友人は良かれと思ってこう言います。
「刃を研げばいいのに」
その言葉に対し、その木こりはムッとしてこう答えます。
「そんなことは分かっている。でも、研ぐ時間がないんだ」
この木こりを皆さんどう思うでしょうか。馬鹿な木こりだと笑えるでしょうか。私はいつも木こりの話をしながら身につまされる思いがします。私たちは毎日、自分の刃を磨いているのか、そして磨くべき刃は何なのか、自問自答しなければいけません。
さて、「刃を研ぐ」に関連し、さらに一歩進めると荘子の「包丁」を思い出します。
庖丁、文恵君の為に牛を解く、手の触れる所、肩の倚る所、足の履む所、膝の踦まる所、砉然たり嚮然たり、刀を奏さば騞然たり、音に中らざる莫し。
桑林の舞に合し、乃ち経首の会に中る。
文恵君曰く、 「譆、善い哉。技も蓋し此に至るか」と。
庖丁、刀を釈てて対へて曰く、「臣の好む所の者は道なり、技よりも進めり」。
(中略)
今、臣の刀は十九年、解く所は数千牛、而して刀刃は新たに硎より発せるが若し。
彼の節なる者は間ありて、而して刀刃は厚み無し、厚み無きを以て間有りに入る、恢恢乎として其の刃を遊するに於いて必ず余地有り、是れを以て十九年にして刀刃は新たに硎より発せるが若きなり。
==現代語訳==
庖丁という料理の名人が、梁の文恵君のために牛の解体を行った。
庖丁の手を触れ、肩を寄せ、足が地を踏み、膝を屈ませる度に、牛は一種の音律を立ててさばかれ、刀を振るう度に、また響きわたり、それはまるで桑林の舞のようであり、また経首の会のようであった。
この様子に感嘆した文恵君が云った。「ああ、なんと巧みなことか、技というのもここまで至るものなのか」と。
これを聞いた庖丁は、さばいていた刀を置いて云った。「私が致しておるのは道というものであって、技よりも一歩進んだものであります。」
(中略)
今、私の刀は十九年経ち、数千頭の牛に対して解体を行なっておりますが、その刃はまるで砥石にかけた直後の如くに鋭いままです。
牛は節あるものでありまして、その節には間隙というものがあり、刀刃はそれより薄いものであります。その薄い刃が間隙に入るわけでありますから、刃は悠々として自由自在に動くことができるのです 。
この故に十九年経った今でも、私の刀はまるで砥石にかけたばかりの如くに新しいままなのです。
荘 子「養生主編・第三」
新発硎、新たに砥石にかけた後のように刃に磨きがかかっている、ということです。この場合は道具である刃を磨くというより、営み全体が美しく機能している結果として、刃が光り輝いています。ここまでくれば、牛の解体も一つの芸術です。
ところで、「刃を遊する」とありますが、この「遊ぶ」という表現が非常に東洋的です。遊学ともいうように、せこせこせず、悠遊自適、自由自在にゆったりと学問に遊ぶこと、これが東洋的な意味で最も至れる境地であると考えます。「礼記」の中の「学記」にも以下のようにあります。
「君子の学に於けるや、焉(これ)を蔵し、焉を脩し、焉に息し、焉に游ぶ」
学記6
学問というものはまずはこれを蔵し蓄えねばなりません。勿論それだけではなく、蓄えたのちに修める、整理して自分なりに磨いていく必要があり、コヴィーの「刃を研ぐ」はこの「蔵・修」の段階といえるでしょう。しかし重要なのはここからです。やらされ勉強ではダメ、息をするのと同じように学問をするようになる。学問は呼吸であり、生きること、そして息するというのは同時に憩うであり、養生である。
そして最後の過程が、「遊ぶ」ということです。ゆったりと遊んで、自ら適(ゆ)く、これを悠遊自適というわけです。
社会人の教育をしていると、知識を蔵する(蓄える)のが大切なのではなく、いかにそれを自由に使いこなし、また学んだことからも自由になれるかが重要です。大河が滔々と流れるように、自分の過去の知識や成功体験に凝り固まらず、学んだ内容にも縛られ過ぎず、時に応じてそこから離れる自由さが欲しいのです。食べて消化して排泄する、新陳代謝を繰り返して成長していくように、私たちは学びの中で生き、そして悠遊と進んでいきたいのです。そこでは知識やスキルは有用ではあっても付随的なものにすぎません。目の前の現実に無理やり形式知を当てはめるようなことのないように注意せねばなりません。
本来的には「刃を研ぐ」ということは、社会のリーダーたる、企業の先頭に立つ人材であれば当然のことです。それを超えて、いかにそこから自由になり、全体としての均整・柔軟さ・融通無碍な生き方に至れるか。「刃を研ぐ」から「刃を遊ぶ」へ。研修ではなかなかそこまで言えませんが、本当はそこが問われています。