人材育成

答えを教えることよりも問いを持たせること ~啐啄同時を考える

2020年2月16日

人が何かを学ぶとき、大切なことはタイミングです。人を見て法を説け、といったり対機説法といったりしますが、誰に対しても同じ内容をいえばよいというのでは教育的とは言えません。レベル1の人にレベル10の内容を言ったところで意図が伝わらないか、変に誤解されてしまって害しかありません。

禅の世界に啐啄同時(そったくどうじ)という言葉があります。鳥の雛が卵から産まれようと殻の中から卵の殻をつついて(啐)音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで(啄)殻を破る手助けをすることを意味します。雛だけが頑張っても疲れ果ててしまいますし、親鳥が先走って卵を割っても雛を殺してしまいます。二羽の息が合って、初めて卵が孵化するというのがこの言葉であり、この一瞬のタイミングを合わせることが教師という者の重要な役割でしょう(もちろん、この啐啄同時というのは禅らしい机上の比喩でしかありません。雛は自分の力で卵を割るのでしょうし、もし親鳥が手伝ってあげなければいけない雛がいるとしても、その雛は外の世界で生きていくことはできません)。

雛鳥(from mindseeds.inc)

さて、とはいえ人材育成を行う上で、このことはなかなか難しいものです。教師側として自戒すべきは、準備が整っていない相手に対し、先に答えを教えてはいけないことだと思います。『ザ・ゴール』を書いたエリヤフ・ゴールドラット博士は、以下のように言っています。

学ぶことの最大の障害は答えを教えることではないか?それは、自分で答えを見つける機会を永久に奪ってしまうからである。自分で論理的に考えて、答えを見つけ出すのが、人が学ぶための唯一の方法だと私は信じている。

エリヤフ・ゴールドラット博士

確かに膨大な先人の知恵を一瞬で頭に入れて、加速学習することは大切です。一つの体系を知れば、自分が何を分かっており、何を分かっていないのかを知ることができるでしょう。しかし本当にその知識を血肉にし、見識とするには少なくとも自分の頭で疑問をもって、何度も何度も考え抜かなければいけません。教師の安易な回答が、その考え続ける機会を奪っているのであれば、成長の機会を奪う忌むべき行為というべきでしょう。

解けない問題に頭を悩ませ、うんうん唸りながら考え、そして自分なりの結論が出たときの喜びは何に変えることもできません。そしてそれは自分の一生の支えにすらなりうるものです。人類の成長は、おそらく答えを見出したからではなく、問いを持ち続けたからではないかと思うのです。

アインシュタインは自分のことを次のように言っています。

「私はそれほど賢くはありません。ただ少しだけ長く問題と共にいただけです。」

アルベルト・アインシュタイン (Albert Einstein)
アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein Head ( From Wikimedia Commons, the free media repository )

また、経済学者のケインズは、その人物評伝の中でニュートンを評して以下のように言っています。

「ニュートンは一つの問題を数時間も、数日も、数週間も、ついにそれが彼に秘密を打ち明けるまで、心の中に持ち続けることのできる人であったかとおもう。」

ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)
ケインズ Keynes 1933( From Wikimedia Commons, the free media repository )

さて、もう一度禅の話に戻りましょう。本当に「学ぶ」ということ、これは人間と人間の精神がぶつかり火花を散らせるように行うことです。お互いに問いを持ち、それをぶつけ合って直観で自分なりの理解を勝ち取ることです。古来、これを参学と言いました。先生の言うことを必死にノートをとって受け売りしているようではまだまだ真剣みが足りませんし、学びというには底が浅すぎるのです。

禅僧の法門は、(中略)習ひ伝へたる法門を、胸の中にたくはへ、紙の上書きつけて、展転して、人に授け与ふることなし。ただ機に対する時、直下に指示するのみなり。これを覿面提持(てきめんていじ)と名づく。撃石火・閃電光にたとへたり。その蹤(あと)を求むべからず。古人云はく、言外に意を悟るも、すでに第二に堕すと云云。いかにいはんや、その言を記録して、人に与へて見せしめむをや。

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僧が教えを説くのは、習い伝えた教えを胸の中にたくわえ、紙の上に書きつけて、これをのべひろげて人に授け与えるなどということはないものだ。機会に応じて直に指示するだけのことである。これを覿面提持(面と向かって示す)と名づける。撃石火・閃電光にたとえている。そのあとづけを求めてはならない。古人も言っている。言外に意を悟るのも、すでに第二義に陥っていると。それなのに、なおさらのことだ、その言葉を記録して人に与えて見せるなどということは。

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夢窓国師『夢中問答集』第92段

夢窓 疎石 Muso soseki( From Wikimedia Commons, the free media repository )

これは夢窓疎石の『夢中問答集』の一文ですが、まさに上述のことを指摘しています。本当の人格の切磋琢磨は、石をぶつけて火花を散らすように、そして稲光がパッと閃くように、人物と人物が触ったとたんに火花を散らす、それくらい真剣で、緊張感のあるものでしょう。

だからこそ、タイミングが大切です。その意味で啐啄同時なのです。

企業の人材育成の難しい点はここにあります。知識は付けられても、それが本当の意味で血肉になるかと言われれば、相手次第と言わざるを得ないのです。下手をしたら相手に「わかった気にさせる」だけかもしれず。その場合、害の方が大きいかもしれません。

我々人材育成に関わる人間は、知識・答えを教えるのではなく、なるべく本質的な問いを提示することを心がけ、雛の孵化をサポートしたいものです。


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